車石・車道とは

1.車石とは

牛車と車石模型(真田孝男氏製作)

牛車と車石模型(真田孝男氏製作)

江戸時代の京都周辺の三街道には、人や馬の通る人馬道とは別に、一段低い所に二列に敷かれている一種の軌道があった。この軌道が車道であり、車道である。車道は、幅が九尺(2.7m)で、長さ一尺(90cm)の牛道をはさんで2列に花崗岩の石が敷かれていた。この石が車石で、その上を牛車の車輪が通ることから輪通り石、輪石、輪形石などと呼ばれている。車石は、たて30cmm、横60cm、厚さ25cm~30cmぐらいが標準的な大きさで、輪形石・輪石・輪通石などとも呼ばれていた。

いろいろな車石

石の中央に丸い溝のある「典型的」な石だけでなく、実にさまざまな石がある。表面だけでなく、裏面にも溝のある石、十字状になっている石、二筋の溝がある石、溝の形がなだらかなもの、溝の深さが2,3cmほどのもの。それだけでない。長さ2m70cmもの長大なものや1畳ほどの石に、はっきりと溝のあるものもある。

2.京都周辺の三街道

車石敷設三街道地図

車石敷設三街道地図

三条街道(浜大津~三条大橋)以外にも、竹田街道(東洞院塩小路~伏見)、鳥羽街道(千本九条~下鳥羽)にも敷かれ、道がぬかるんでも車輪がめり込まないようにされていた。 準内陸都市の京都は、運河や河川などの水の道とともに、大津から京都のように土の道にたよらざるを得なかった。とくに、逢坂峠と日岡峠の2大難所は、平安の昔から、峠道の掘り下げ工事がたえまなく行われてきた。

三条街道(浜大津~三条大橋)以外にも、竹田街道(東洞院塩小路~伏見)、鳥羽街道(千本九条~下鳥羽)の要路にも、湿地のぬかるみ対策や道路保全のため車石が敷設されていた。

3.いつ・誰によって敷設されたか

橋の下を行く牛車 明治時代 京を語る会・田中泰彦編集・解説『京都慕情』より

橋の下を行く牛車
明治時代 京を語る会・田中泰彦編集・解説『京都慕情』より

江戸時代、京都-大津間の東海道では、多くの牛車が往来し、大津に運ばれた米や木材などが京都に向けて運ばれた。当時は、舗装もなく、雨天続きともなれば、逢坂峠・日ノ岡峠の二大難所では、車輪が泥にとられ立ち往生することが常であった。平安の昔から、掘り下げや改修工事が幾度となく行われてきた峠道は、江戸時代に入ると、通行をスムーズにするために、歩道と車道が分けられ、車道は一段低いところに通されていた。

江戸中期には、峠道で四つの足を泥に取られてあえぐ牛の姿や旅人の難渋を見かねた木食正禅上人が、浄財を募り、日ノ岡峠道(亀の水不動尊辺り)の急勾配の緩和や敷石舗装などに取り組んだ(1737年)。

その後、規格化された車石が発案されたようで、車道に部分的に敷石が敷設された。

道がぬかるんで、牛車の車輪が泥に取られて動かない。こんなときは、板や近くにある平らな石をそこに据えたであろうことは容易に想像がつく。しかし、現在民家や沿道沿いに残されている規格化された石が、いつ、誰が発案したのか、となると不明である。

宝暦のころ四国の人西原宗左衛門が伊勢参宮の途次、車牛が重たい荷物をあえぎながら引くようすを見て憐れみに思って、車石を敷いたとか、三条大橋近くの質屋大黒屋伝兵衛が同じような思いから敷いたとか、あるいは、京への米の出荷によって藩の財政を支えていた膳所藩城主本多候が米の運送を効率よくするためのアイデアを募集したところ、滋賀郷の百姓からアイデアが出され採用した、などなどの伝承があるがいずれの説も実証されていない。

文化2年(1806)には、心学者脇坂義堂の進言により、幕府は、沿道の町や村の村役人などを編成し、三条大橋から大津八丁までの三里に、車石敷設工事を行った。車道の車石に流れ出た砂などの掃除は、人馬道とともに、その沿道の村々が行うように命じられていたが、車道や車石の破損についての改修工事は京都の車組が行っていたようである。

文化元年から2年(1804~5)にかけての車石敷設工事には、一万両もの大金が費やされたと伝えられるが、一万両もかかったと言われる根拠や、そのお金を出したのは誰か。

心学者脇坂義堂が、拠金を呼びかけたところ、社中から750両、日野の豪商中井源左衛門から250両が拠出されている。それ以外の9000両あまりはどのように工面したのか。幕府の財政から負担したとは思われない。

スポンサーの一人に讃岐の豪商安藝栄柱幸四郎の名があげられている。40年ほど前、安藝家の子孫安藝育子氏が、家に伝わる「大津の船着き場から三条の橋の袂まで三里の道に石畳を敷いたそうな・・・」との聞き覚えをもとに、「石畳」追究を始め、それが文化年間の車石敷設工事であったことをつきとめている。安藝家の古文書が保存されていた旦那寺が火災に遭い、古文書はことごとく失われてしまっていてそれを証明する史料は無い。ところが、讃岐安藝家と縁戚関係にある隣村の多田家の下張り文書の中から、「・・・江州大津の車牛通行の石を敷きたるは、此ノ幸四郎の奇特なり。・・・近江国の大津の車牛通行の敷石等の道は、是れ安藝氏の修営なり」との史料に出会っている。また、古老から、村人の言い伝え「板家(安藝家の屋号)は、牛馬の恨みで潰れたんじゃちゅうことじゃ(道が良くなったので、牛はその分重い荷物を曳かされるようになり牛の恨みをかったという意味)」などを聞き取り、スポンサーの一人、安藝栄柱幸四郎を発掘した。

4.車道とは

昭和6年から8年にかけて京津国道改良工事が施工された。逢坂峠切り下げ工事中(昭和6年5月)、在来道路下から車石列が出土している。この時、目撃した人は、「二列の敷石の幅は一間ほどある、昔の車は大きく一間位の幅があった」と証言している。また、また同年12月頃、日ノ岡峠道の壁面に「旧舗石」とはめ込み、二列の車石を復元している。その中心軌道幅は136、7cmある。車石列が出土した頃に復元されているから、かつての車道の幅に正しく復元されていると考えるのが妥当のように思われる。が、確証がない。昭和9年に、出土車石についての詳しい報告が出されている(『滋賀県史蹟調査報告』第6冊)が、石の大きさや、えぐられた溝幅、溝の深さの記録はあるものの軌道幅の計測が欠落している。

文化年間の車石敷設工事の仕様書は、古文書(比留田家文書や横木村文書)に残されている。それによると、牛道は、3尺(90cm)とってあり、その両脇に、2尺5寸の車石を据える溝を掘るよう記されている。牛道よりに、標準大つまり二尺の車石を据え、真ん中に車輪が通ると考えると、軌道幅は4尺5寸(135cm)ほどになる。筆者は、この5尺が軌道幅であっただろうと考えるが、さらに検討の余地がある。

5.車石の石材

現地調査の結果、東海道でよく見られるのは、第1に木戸石(滋賀県志賀町)であり、第2に、藤尾石(大津市藤尾)であり、次いで少数の白川石(京都市北白川)であった。他に、チャート製のものが見られる。

(1)木戸石(比良花崗岩)

木戸石は、白川石と同じく、色の白い黒雲母花崗岩である。白川石に比べると、粗目で黒雲母の散らばり具合や色合いに特徴があり、見慣れてくると比較的簡単に判別することができる。また、木戸石は、白川石に比べ早く赤いさびができやすいように思われる。木戸石といっても北小松、近江舞子、南小松、比良から志賀にかけて比良山系の花崗岩(山陽帯比良花崗岩)で、谷によって石の質はちがっている。

つまり、比良付近には、以上のような粗目の黒雲母花崗岩だけでなく、細粒、中粒黒雲母花崗岩や石英ひん岩(石質の緻密な青石)もみられ、いずれも車石の石材として使用されている。

(2)藤尾石

藤尾石は、衣笠山から長等山、藤尾にいたる大岩脈から産出する石英斑岩であり、細かい石基や長石の地に大きな石英の粒が斑状にみられる。岩質が硬く、敷石や石垣石としてよく使用される石である。われたところをちょっとみると、ざらめ状になっており、褐色や灰色・青・緑などの地に石英の斑点がみられ、判別しやすい。花の模様に見えることから「花紋石」の俗称がある。

この石製の車石は、三条街道の東、横木~大谷にかけて、とくに横木付近でよく見られる。これは、この地の付近に藤尾石の採石場があったことから当然のことと思われる。

(3)白川石

それでは、これまで考えられていた白川石製の車石はどうだろうか。

白川石は、比叡山から大文字山の間で産出する花崗岩(山陽帯比叡花崗岩)である。一般的に中目の黒雲母花崗岩で、鉄分が少なくあまり「さび」が出ないといわれる。また、すべての白川石がそうではないが、石英や長石、黒雲母の他に副成分として、シャープペンシルの芯のような長柱状の褐簾石を含むことがあり、それが判別の決め手になると言われている。つまり、京都近辺で褐簾石が含まれていればまず白川石と決めて間違いないという(京都滋賀自然観察会編『総合ガイド⑧比叡山・大原・坂本』)。

(4)その他―チャート

京都周辺には、全国的にもチャートが多いと言われる。チャートは、河原でよく見られる。触るとなめらかで、息をかけたり水にぬれたりするとつやが出て美しい。鉄よりも固く、鉄片で打ち続けると、削られた鉄の小片が摩擦熱で瞬間的に燃える。火打ち石による火起こしの原理である。当然、加工には向かない。出っ張りを少しずつうちかいて加工するぐらいである。

したがって、チャートを石材として使用したとは考えられないし、事実文献にも記されていない。ただ、工事中、車道に岩盤があったり、所有石(ところあり石)あったりしたところは、それらの石を使用している。川の中を通ることになっていた四ノ宮河原などでは、河原の硬いチャートが使われたであろうことは十分に考えられる。

このチャートの車石は、その硬さ故に外の花崗岩製、石英斑岩製の車石とちがい、溝が浅いことが特徴である。深くて3cmほどである。また、他の車石の溝に細かい筋がみられるのとはちがい、一見して筋が見られない。指で溝面をさわって感じるぐらいである。