牛車専用車道 車石の謎

二列のレールのような軌道

「・・・日の岡を上る、牛車多し。すべて此辺車道いふて、往来にみかげ石を横さまにならべ、二筋の道を付けるに、車の輪しせんと石に跡つきて、深さ五、六寸位のみぞとなれり。是より蹴上を下りて京に入・・・」

この文は、江戸時代の後期嘉永元年(1848)、永野孫次郎という江戸の大店の番頭が著した「西京独案内」(『京都見聞記』第3巻・法蔵館)の一節です。江戸や地方とは違う街道の様子に目を向け、往来に御影石が二列に敷きつめられ、車の跡が自然とついて溝ができていることに注目しています。

この江戸や地方にはない牛車専用の道が京都にはありました。この時、孫次郎が歩いた三条街道には、人や馬の通る人馬道(往還)とは別に、一段低い所に二列にレールのように石を敷いた一種の軌道がありました。この軌道が牛車の通る車道であり、牛道をはさんで2列に敷かれていた花崗岩の厚板石(たて30cm、横60cm、厚さ25cm~30cmぐらいが標準)が車石(輪石・輪型石)と呼ばれるものです。

江戸時代、京都-大津間の東海道では、多くの牛車が往来し、大津に運ばれた米や木材などが京都に向けて運ばれました。重さ300kgの牛車に米俵9俵=540kgを載せた牛車が年間二万輌以上往来していました。当時は、舗装もなく、雨天続きともなれば、逢坂峠・日ノ岡峠の二大難所では、車輪が泥にとられ立ち往生することが常でした。平安の昔から、掘り下げや改修工事が幾度となく行われてきた峠道は、江戸時代に入ると、通行をスムーズにするために、歩道と車道が分けられ、車道は一段低いところに通されていました。

峠道で泥に足を取られる車牛

江戸中期には、峠道で四つの足を泥に取られてあえぐ牛の姿や旅人の難渋を見かねた木食正禅上人が、浄財を募り、日ノ岡峠道(亀の水不動尊辺り)の急勾配の緩和や敷石舗装などに取り組みました(1738年完工)。その後、規格化された車石が発案されたようで、車道に部分的に敷石が敷設されました。文化2年(1805)には、心学者脇坂義堂の進言により、幕府は、沿道の町や村の村役人などを編成し、三条大橋東詰から大津八丁までの三里に、車石敷設工事を行いました。初めにあげた永野孫次郎が見た、横据えに並べられた御影石は、文化二年に敷設された車石でしょうか。さしも堅固な花崗岩の敷石も、積荷の重さを入れて800kg以上もある牛車(車輪は木製で、金輪をはめていなかった)が、年間2万輌以上も往来することによって、えぐられ、丸く深い溝をつくっていったのです。

三条街道(浜大津~三条大橋)以外にも、竹田街道(東洞院塩小路~伏見)、鳥羽街道(千本九条~下鳥羽)の要路にも、湿地のぬかるみ対策や道路保全のため車石が敷設されていました。

車石の謎

この車道・車石は、明治に入り、人力車や馬車などの新しい交通・輸送機関が導入され、それにともなって、近代的な道路の修築が急務になると、撤去されていくことになりました。三条街道では、明治8年~9年の間に撤去され、車石は道路の溝石や峠道の擁壁、橋台石垣などに転用されていきました。それら転用された車石も、道路や道路擁壁の補修工事の中で除去されたり、再転用されたりして、今日に至っています。今、日ノ岡峠の擁壁石垣には、その車石が使われています。石垣石のすべてが車石と言っても言い過ぎでないほど目にすることができます。

車石には、実にさまざまな石があります。

中央に丸い溝のある「典型的」な石は、その一部です。表だけでなく、裏にも溝のある石、二筋の溝が十字になっている石、垂直関係になっている石、溝の形がなだらかなもの、溝の深さが1、2cmほどのもの。それだけでなく、長さ2mもの長大なもの。1畳ほどの石に、はっきりと溝のある石もあります。これらの石がどのように使われたのかを想像することは楽しいものです。

しかし、この車石・車道についても、まだまだ不明な点が多いのです。いつ、だれが発案したのか。車輪と車輪の幅、牛車を引いた車牛の原産地、文化2年の三条街道車石敷設工事には、一両で約150㌔の米が変える時代に一万両もの費用がかかったと言われるが、そのスポンサーは誰なのか。石材はどこから搬入したものか。一車線なら通行規制はどうだったか、などなどです。これらの謎が多いのも、車石の魅力の一つでしょう。

車石・車道研究会 久保 孝